もう見つけられている?豊臣秀吉埋蔵金伝説

もう見つけられている?豊臣秀吉埋蔵金伝説

日本統一を果たした大大名、豊臣秀吉
彼が所有していた莫大な金銀財宝はどこにいったのでしょうか
その後の徳川江戸幕府の糧となってしまったのか、それとも・・・・

豊臣秀吉の埋蔵金

日本の三大埋蔵金のひとつとされる太閤・豊臣秀吉の埋蔵金です

二度目の朝鮮出兵後、病によって倒れ、死を目前にした豊臣秀吉が淀殿と6歳の秀頼の身を案じて莫大な量の黄金を埋蔵させたと言われています

その量は天正大判4億5000万両と金塊3万貫(現在の価値で約5兆円)とされ、秀吉がそれらを隠した場所は多田銀山とされています

秀吉は自らの富の裏付けとなった多田銀山を突然閉山して、無数にある坑道内のどこかに黄金を隠したと言われています

遺書と秘文書

秀吉は勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させたと言われています

これらの埋蔵金の記録は幡野三郎光照の遺言などによって知れ渡り、また戦後発見された秘文書などにも記されていることから、以後多くの人によって発掘作業がされています

しかし、多田銀山には無数に坑道があり、すでに埋まっている部分や水没している部分もあるため、現時点ではまだ埋蔵金は発見されていません

一説には、盗掘されないように水没されており、秘文書にはそのための水抜きの方法なども記されていたと言われています

秀吉の富:三国無双の城

豊臣秀吉が築いた大阪城は贅を尽くした絢爛豪華なものであり、「大坂夏の陣図屏風」や「大阪城図屏風」では外壁や瓦に金をふんだんに用いた姿で描かれています

大阪城を訪れた大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き「三国無双の城である」と称えました。後に大坂の陣で焼失してしまいましたが、当時としては他に類を見ない巨大な要塞でした

他にも、京都には関白となった秀吉の政庁兼邸宅として「聚楽第」を構え、その後には伏見城も建造しています

秀吉の富2:黄金の茶室

また、秀吉の富を象徴する代表的なものとして「黄金の茶室」があります

黄金の茶室は、茶器や茶道具だけでなく、天井や柱、壁や障子にいたるまで金で統一されている黄金に輝く茶室です

秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いのですが、豪華絢爛な点、権力誇示に使用された点、組み立て式である点など、あらゆる点において通常の茶室建築とは一線を画しており、その醜美には賛否両論あるものの、数ある茶室の中でも最も名の知られたものの一つです

なお、千利休の監修と伝えられています

多田銀山:秀吉の策

多田銀山は旧摂津国、現在の兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市の広範囲にわたり坑道が開堀されてきた銀山です。なお、その歴史は古く、源満仲が開いたとも伝えられています

豊臣秀吉の直轄領となった後、慶長3年(1598年)の豊臣氏への運上高は銀476枚(約76kg)であり、生野銀山の62267枚(約10トン)には遠く及ばず、このため関ヶ原の合戦以降も徳川家康は石見銀山および生野銀山のように天領(江戸幕府の直轄領)としなかったといわれています

確証できる資料は存在しませんが、これは秀吉の「銀脈を隠匿し将来の蓄財に備えた」という策略であったのではという説があります

多田銀山2:そして天領へ

しかし、その半世紀後、銀および銅の産出が急増し天領となっています

年間の産出高が、銀1500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)と、秀吉の時代から数十倍もの急増です

このことから、逆にすでに見つかってしまっていたのではないかという見方もあるようです

東国の金遣い、西国の銀遣い

江戸時代の貨幣制度の特徴を端的に表した言葉で、当時東日本には金山が多くあり、西日本には銀山が多くあったことから、東日本では主に金が貨幣として用いられ、一方西日本では主に銀が貨幣として用いられていました

そのため「東国の金遣い、西国の銀遣い」と言われていました

探査ロボット

近年では落盤の危険があり内部の調査はほとんど手つかずのままだった多田銀山に坑道入り口から遠隔操作できる探査ロボットを入れ、秀吉の埋蔵金の調査に乗り出したといいます

調査の目的は、坑道内の形の特徴を把握して年代を特定し、多田銀山の実態を調べるのが狙いであり、新名神高速道路の橋脚建設に伴う調査で見つかった猪名川町の坑道が対象とされています

なお、事前調査では奥に行くほど坑道の高さは低くなり、突き当りの天井には鉱脈につながっている可能性のある竪穴も見つかったといいます

日本で最も有名な戦国武将が残した埋蔵金
まだ存在するのでしょうか?
それとも、もう見つけられてしまったのでしょうか
あなたはまだあると思いますか?思いませんか?

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